デカルト先生曰く

「良き書物を読むことは、過去の最もすぐれた人々と会話するようなものである」であるなら「良き同人誌を読むことは優れた描き手と対話することに他ならない」。


同人誌は、時間と先人による厳しい審判を潜り抜けていないので、古典に触れるということはなかなか難しい。古典になる前に、大部分の同人誌はおそらく忘れ去られている。一般の読者に目に触れる機会というと、せいぜい商業作家がかつて出していた同人誌の復刻というのが定番だ。


稀に作品以上に作家に興味を惹かれるという困った?読み手がいる。自分もその手のクチかな、と思わないでもない。書物レベルでは相手はすでに故人であることが多いが、同人誌の場合はまぁ大抵生きている、のでその手のアプローチはいろいろある。


そういえば、著者が既に死亡している同人誌を読んだことはあまりない。入手経路的にリアルタイムかつ同時代人であることが多いし、中古同人流通っていっても、既に存在を知っているものを決めうちで買っているのが殆どだし。むしろ活動をやめたサークルの本が残ることの方が圧倒的に多い。


閑話休題、描き手との対話というのは、ソーシャルメディアが伸張した昨今は、比較的容易にみえ、実際、突撃するファンもままいるが、そういうことではなく、咀嚼し自らの血肉とする行為である、と仮に定義すると、影響力という言葉に行き着く。読み手が描き手に及ぼす相互作用はよほどの努力を払わないと難しいだろうが、絶無ではない。まして描き手同士での相互作用など幾らもあるし、描き手はまた優れた読み手である(ことが多い)。


読書の楽しみは、初期においては、行為そのものに力点が置かれがち、というかそれしか楽しむ術を知らないが、徐々に触媒としての楽しみ方、自分自身の精神の波紋の広がりそのものを楽しむという風にシフトするように思える。他人の思索や想像に耽溺し、己の裡に琴線に触れる鉱脈を掘り当てる行為をとりあえず、描き手との対話、ということにしておきたいと思ふ。