僕はこんな本を読んでこなかった

相田みつを御大キター。というわけで、読んだことはないですが、2chとか見てるといやでも覚えてしまうと言いますか。メジャー過ぎてもはやテンプレ化しているんであえて読もうという気はおきないと言いますか、いまさら買うのは恥ずかしいと言いますか、フルーツバスケットを買うのとはまた別種の恥ずかしさでございます。

  • 『書を捨てよ、町へ出よう』寺山修二

あまりにも有名なタイトル過ぎて逆に読んだことのない人の方が多そうっていうか最近の若者(死語)が寺山修二を読んでいるのでしょうか、いや私は読んでませんって、私は最近の若者を名乗るには年をくい過ぎていますし、代表する資格もないので、全然参考になりませんね。わたくし的想像だと35-45くらいのオヤジ(不良中年限定)が愛読してたりしそうだなぁという想像なんですがー。

先生と生徒というのは特殊な関係です。師弟関係と言っても、大学の研修室のような濃密な関係から、いわゆる戦後の義務教育における学校制度に代表されるような小学校・中学校のような人によって受け取り方が異なるような、その他大勢の中のひとりといったような関係まで様々であると思いますし。読み手が置かれた環境によって、当然のことながら受け取り方が大きく異なるように思います。元来、小説というメディアは受け手に大きく依存したメディアであるように思います。殊に学校のような、大多数の人が経験したであろう共通体験を題材にするとき色濃く出るものだと思うのです。

共通体験というのは、自分で書いててなんですが、言いえて妙だなぁと思いまして、言い尽くされてきたことですが、戦前の日本社会では軍隊経験が成人男子の、共通体験の最たるものでしたが、いまやそのような共通体験はもはや存在しないと言っても良いのではないのでしょうか。しかし、そうした共通経験というものは実は近代になって国民国家が成立する過程で、国家的要請として、意図的に「作られた」ものではにないのでしょうか。学校然り、軍隊経験然りです。

まぁそれはさておきまして、二十四の瞳ですが、さんざんドラマ化されたり映画になっていたりするので、これもちゃんと通読はしておりません。教育実習とかをさせて貰った経験から言わせて貰えば、どんな仕事もそうでしょうが、殊に情熱がないと務まらない職業であるように思います(小中学校の先生を想定)。今でこそ教師というとある種のいかがわしさというか、そういう印象があるかと思いますが、「でもしか先生」ではなく、師範学校というものがあり、教師というだけで尊敬され権威があった頃の神話時代のハナシとやや辛辣に言うことも出来ましょうが、扱っているテーマが普遍的であるがゆえに、古典として読み継がれているのでしょう(キレイに纏めてみました)。

キューバ革命の英雄です。一種のカリスマと言いますか、根強い人気がありますね。もちろん未読なんですが(脳内)国際共産趣味者同盟に加盟している本サイトとしては、ゲバラとくれば反応しないわけにはいかないキーワードでしたので、とりあえず言及だけしておきます、みたいな。

元祖SFの祖であるヴェルヌである以上、これもスルーは許されない作品でしょう。ポプラ社かなんかで出ているような小学生向けのヤツを読んだだけですので、厳密に言えば、到底読んだとはおこがましくて口に出せないわけでして。ハマコンの主催がサイトトップに置いていて、「ヴェルヌの見た夢」というのが今回に日本SF大会のテーマだったそうですが、自分の世代が体験したSFな出来事と言えば、まずはインターネットの出現、2番目が携帯電話の普及率、そして、ファミコンからプレステ2へというゲーム機の発展でしょうか。どれもこれもいわゆる情報エレクトロニクスの発展によるものですが、小学○年生とかの近未来都市想像図にあるようなイメージには程遠い21世紀ですが、タイムマシンは無理でもなんとか死ぬまでには宇宙に行きたいなーと淡い希望を抱いているのですが、それだったら、地球外生命体が発見される方が確率の方がまだ高いかなーなどとも思いますが、月面都市とか火星テラフォーミングは夢のまた夢でしょうか。
ネトゲー廃人とかを見るにつけ、そういう重厚長大型SF(勝手に命名)よりは、『ヴィーナス・シティ』のような路線とか『夏への扉』の文化女中器、護民官ピートのような、露骨に言えば『ヴァーチャル・ガール』に代表されるようなメイドロボの方が、欲望に忠実である分だけ、言い換えれば分かり易過ぎるくらい動機が明確であるので、かえって実現したりしないでしょうかねーなどとも思ったりするのですが。



続いてナツイチです。

『恥の多い生涯を送ってきました』で始まる有名な作品ですが、スウプをひとさじ吸ってお母さまが「あ」という声をあげる作品というぐらいの知識しかありません。破滅型作家、太宰の真骨頂たる本作ですがもちろん未読です。

ジョバンニとカムパネルラ。岩手が生んだ、不遇の大作家です。ちなみに岩手県のお役人さまの名刺を貰ったら、「銀河系岩手」というお遊び版名刺を貰いました。参考公式HP。

それはともかく。わたしが『銀河鉄道の夜』で思い出すと言えば、桑島法子が某ラジオでやった朗読でしょうか。今から思えば、完全に趣味に走っていましたね(笑)。最近ですと、『半分の月が昇る空』(橋本紡)で、文学少女なヒロイン(そうか?)の愛読書ということで、そこそこ重要な小道具として、使われたことが印象に残っています。当然未読。

このフレーズは良く聞きますが、これが元ネタということでOKでしょうか。不肖宮嶋さんの著書に『空爆されたらサヨウナラ』は戦争写真家として生き26 才で死んだ一ノ瀬泰造の『地雷を踏んだらサヨウナラ』を下敷きにしていることは言うまでもないですし。大槻ケンジとかが好きそうなフレーズだな。グミチョコパインで普通に出てきそう。未読。

  • 『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』江國香織

タイトルが面白いな、という作品。濡れた猫を暖めるのに、電子レンジは安全でも適切でもありません、大人しく、乾いたタオルで拭いてあげましょう、というハナシ(大嘘)。えーと、電子レンジ猫チン裁判は都市伝説ということでOKですよね?しつこいようですが未読です。


謎をかけるのは私たち自身の脳
謎に答えようとするのも私たち自身の脳
どこまでも問い続け
いつまでも答えは無い

えーと、たぶん、これは収録されていませんので、注意。むかーし、驚異の小宇宙人体 脳と心という番組があってな、というわけで、番組中に引用されて、樹木希林が朗読した詩の一節。これに、久石譲の流麗な音楽が乗るわけですから、心を揺さぶること請け合いです。放映当時はお金がなかったのですが、自由なお金が出来た頃に、ちゃんとサントラを確保しましたー。オススメ。

ググったら見つかったので、引用しておきます。
魂の迷宮に踏み込むことは危険なので、火遊びはほどほどにしませう。「螺旋の迷宮、汝の名は脳あるいは別名、こころ」と言ったところでしょうか(カッコつけてみました)。



この卵型の 骨の器にしまってあるものはなに?

傷つきやすく狂いやすい ひとつの機械

私たちは おそるおそる分解する


その美しいほほえみの奥にあるものはなに?

見えるものと見えないものが絡み合う 魂の迷路?

私たちは おずおずと踏み込む


謎をかけるのは私たち自身の脳

謎に答えようとするのも私たち自身の脳

どこまでも問い続け

いつまでも 答えはない・・・。


「脳と心」 詩/ 谷川俊太郎

  • 『ものいふ髑髏』夢枕 獏

夢枕獏と言えば、多作で活動ジャンルが広い作家ですが、世間一般的には『陰陽師』シリーズでしょうか。自分的には、『上弦の月を喰べる獅子』上下なのですが、これはむしろマイナーな部類に入るでしょう。あとはやっぱり『猫弾きのオルオラネ』でしょうか(ただ単にいわゆる伝奇モノを読んでないので・・・)。これは猫SF的には外せない作品でしょう?
繰り返しますが、未読です。表紙、ストーリーともに惹かれるものがあるので、機会があれば是非読んでみたい作品ですね。