副読本『歴史とは何か』(E・H・カー)岩波新書 232頁 Ⅵ 広がる地平線 それでも―それは動く より

「過去にその比を見ぬほど急速且つ根本的に世界がその姿を改めつつある時期に際して、これはひどい無理解だと思われ、それが心配の種なのですが、もっとも世界的規模の運動が止まってしまうという心配ではなく、同人誌―に加えて、恐らくはそれを取り巻く人々が一般的前進の後に取り残され、力なく諦めて郷愁の沈滞に陥って行くという心配なのです。私自身は依然として一個のオプティミストであります。庵野秀明が2次元は避けるように、そして現実に帰れと私を戒めるとき、コミケット代表が、我々は特にどこへ行くのでもない、大切なのは、ボートを揺さぶる人間がいないように気をつけることです、と、あの語り口で開会の挨拶を述べるとき、今は亡きイワえもんが全国の同人誌即売会でパロディとオマージュの精神を注ぎ込まれた同人誌を探し歩くとき、つくりものじさんが、小さな『何かβ』と呼ばれるシェルを用いてあの古い愛すべき任意、「あれ以外の何か with "偽春菜"」をWeb上にとどめようと願うとき、カワハラキクコが絶叫する徹夜組の鼻を叩くとき、そして、本田透が健全な萌えの精神で書かれた『電波男』のために弁じるとき、私は激動する世界、陣痛に苦しむ世界を見つめ、ある偉大なスポーツ選手の古びた言葉を借りてお答えしたいと思います。『コミケットは永遠に不滅です。』」

…まぁ、なんと言うかレヴォ追悼という感じでしょうか。元が良いので他にもいろいろ出来そうなところはあって、

「『同人誌とは何か』に対する私の最初のお答を申し上げることにいたしましょう。同人誌とは原典と作家との間の相互作用の不断の過程であり、作り手と読み手との間の尽きぬことを知らぬ対話なのであります。」

とか

「前回の講演で私は次のように申しました。『同人誌を研究する前に、作家を研究して下さい。』今は、これに附け加えて、次のように申さねばなりません。『作家を研究する前に、作家のジャンルおよび社会的環境を研究して下さい。」作家は個人であると同時にジャンルおよび社会の産物なのです。同人誌を勉強するものは、こういう二重の意味で作り手を重く見る道を知らねばならないのです。」

とかですね。かなりいい加減というか適当に作ってすらこれですから、如何に原典の奥行きの広さがわかろうかと言うものです。