米澤穂信『遠まわりする雛』(1)

まぁ買った翌日には読み終わっていたんですが、何度か読み直したりシリーズを再読してみたりしているうちに間があいてしまいました。

なんとなく古典部シリーズを俯瞰してみたくなったからかもしれません。ぐだぐだ書きますので長文注意です。しかも一部でネタを割るかもしれません。なので、古典部シリーズのみならず、穂信たんの全作品を読んでいるような人向けです。妖精だけ読んだとか『犬はどこだ』、春期限定のみでこれから古典部に手を出す〜という人はスルーして下さい。

期待値が高かったので、最初の方は違和感を感じたのですが読み進めていくうちに、チョコレート〜雛に至る道程に撃沈されてしまいました。本作は連作短編集の形式こそ採っているものの個々のストーリーは、愚者であったりクドリャフカの前後に挿入されるべきエピソードであることを考えれば至極納得がいくものです。初めから既知の友人であった里志などはともかくとして、千反田えるとは自然、物語の進行に応じた距離があるからです。どうも、自分はクドリャフカ後の古典部の人間関係がインプットされていたため、違和感を感じてしまったのかもしれません。時間軸通りに並べ直せば、奉太郎やえるの言動はとても自然なものです。

今回、雛を読んでまず思ったのは、二人の関係性がここまで踏み込むとはちょっと予想外でした。奉太郎はあの通り自分のテリトリーから積極的に出る人物像ではないので、自然イニシアチブはえるにあり、えるからのアプローチに翻弄される探偵役という役どころを与えられているという風に感じていたのですが、改めて考えてみるにそれは少し事実と異なるのではないかと考えるようになりました。

奉太郎は姉からの手紙で古典部に入り、千反田に出会い、あの「私、気になります」に導かれるように探偵役としての片鱗を覗かせていく。捉えようによっては、千反田という触媒によってホータローという無味乾燥、平穏これ無事を信条とする人格が徐々にではありますが、ゆっくりと覆されていく過程と言えるでしょう。むろんホータローも潔しというわけではなく、「不思議を以って不思議を制す」の計(wを用いたりするなどしてささやかながら、抵抗を試みていますがそれは甘噛みのようなものとでも言いましょうか、千反田との距離を掴みかねて、というものでしょう。言うなれば照れ、作中の言葉を用いれば「保留」ということになろうかと思います。
ホータローの高校入学前の描写は積極的にはされていませんが、灰色に近いもの、そしてそれは当人が望んだもの―――であったのが、えると出会うことで色付いてくる、ホータローに言わせれば修正を余儀なくされた、そんなところかもしれません、が。

ぐーたらホータローがなぜにえるに対しては無碍にしないのか、自身の信条、ライフスタイルを全うするつもりであれば、それは容易なはず――をしないのかについては野暮なのでクドクド言い立てる必要はありませんね。