イベント(同人誌即売会)を開催する目的とは?

追記:いつのまにやら、事実確認中…に後退していますが、それはともかくとして、そんなに非難を受けることなのかが激しく疑問です。という結びには、賛同できません。なぜならば、各書店での販売に手違いなどという瑣末な問題があったのかどうなのか、私は事実を知りませんが、それ以前の話として、こういう結末を迎えることは(関係者にとっては)織り込み済みであったわけで、知らぬは一般参加者ばかりであったからです。いみじくもイベントを主催する本来の目的とは?という記述がありますが、それならば明確に応えて頂きたい。例えば、コミケは繰り返し繰り返し明確に「表現の場を提供する」というスタンスを打ち出していると思いますが、本イベントは、そして本イベントの主催者サイドは、何を以ってレゾンデートルとするのか。もちろん、それはイベント、主催の個性によって、多様性に富んだものとなるでしょうから、何を理念とするかは、まったくの自由です。

ドラッカー博士という経営学者/コンサルタントがいらっしゃって、しっかりと著作を読み通したことはないものの、この人の言葉にはなるほどと思うことも多く、いつも感心させられるのですが、この中ににこんな言葉があります。


「傲るな。企業は、「社会」に存在させていただいているものだ」


なんか目から鱗が落ちました。最近、企業の「CSR」などがとみに叫ばれていて、自分が勤務する会社でもそういう運動と言いますか、再認識させるべく再研修などが行われているようですが、雪印三菱地所の土壌汚染隠し【あわや宅建免許取り消し寸前】、森ビルの回転ドア事故の一件、そして、三菱自動車のクレーム(リコール)隠し、三井物産の排ガス浄化装置データ捏造事件etc…と事業者の存続すら危ぶまれるぐらいの大事件が相次いで起こる中、ドラッカー博士が言うような「謙虚さ」を忘れてしまっていたのではないか。そういう風に感じます。

横道にそれるのはこれくらいにして、そういう謙虚さをサークルさんもイベント主催者さん(及びそれに協力するスタッフさん)も一般参加者も決して忘れてはいけない、と老婆心ながら警鐘を鳴らしたいのです。反社会的な団体、個人が永続できる試しはありません。広く同人(界)の末永い永続を願うなら、――そしてそれは皆同じの筈――、自明の理ではありませんか。特定のプレーヤーのみに負担が掛かるようなシステムは「共生(共存共栄)」ではなく、「依存」とでも言うべきものでしょう。

個人に残された最後の自由は、ただ自殺することのみ、と良く言われます。本来の理念から言えば3者の関係は対等であることになっていますが、真実を申せば、同人ヒエラルキーの中で末端に位置する一般参加者(買い専)にとって、残された最後の自由は、行かないこと・買わないことであります。行かないということ決断するのもいち買い専にとっては勇気ある、そして苦渋の末の決断、最後の矜持なのです。どうかそれについて少しは考え、お察し下さい。我々の誰一人として、ここから逃げることは出来ないのだし、この場にいることを選択したのだから。

ここまで読んで頂いた方、長文にお付き合い頂いてありがとうございました。青臭いとは自分でも思いますし、拙いところ、論旨が明確でなく分かりにくいところもあろうかと思いますが、自分の現在の偽わざる心境を綴ったものですので、こういう考えもあるのだ、ということで受け止めて頂ければ幸いです。