サンシャインクリエイション28

あかやまやさんー買えたよーというわけで、うわ〜ん(TДT)買えたよぉ、ゴロゴロ、終わり。というのは嘘で時間がないだけです。えー。『純白聖徒志摩子さん〜黄薔薇警報〜』面白ろー。「志摩子かわいいよ志摩子」って元ネタなんだっけ?あぁ「能登かわいいよ能登」かって、能登って誰状態なんですが…志摩子の声優やった人か。メロンブックスで大好評委託中とのことです。*1

*1:黄薔薇警報が委託されるまではしばらく掛かるでしょうけど、まるい先生の同人誌が買えるのはメロンブックスだけ!ってワタシは別にメロソの回し者ではありません。

誰がために

はてな」には、キーワードという便利な機能があって、ある特定のキーワードを言及した人を横に繋ぐことによって、情報の集積が起こりやすくする仕掛けが採用されています。わたしは、キーワードを巡るいざこざは良く知りませんが、それはともかくとして、それが狭ければ狭いほど、「同志」を見つけやすいということであります。
例えば、今回のサンシャインクリエイションについて言えば、「サンクリ28」に行きました云々と書いただけで、かなりな程度補足してくれるので、はてなダイアリーユーザーに限るものの、いながらにして、サンクリのレポが漁れるという按配です。自分はこれまで参加したイベントでは、備忘録がてら、買ったすべてのサークルさんではないものの、簡単なコメントと誌名、サークル名、作家名なんかを添えて、満足度を評価するレポを付けていました。WEBに買った本を晒すということは、間接直接を問わず、趣味嗜好を晒すということでもあるわけですが、どうも見てると(自分のも往々にしてそうですが)「買いました(買えました)」で終わっていたり、○○たん萌えーとかで終わっていたりするものが多く、「ふーん」という感じで、だから何?というのが非常に多いように(自戒を込めて)思うのです。

常々思うのですが、誰に向かって書いて(/描いて)いるのか、ということについて、よく考えます。例えば日記で、昔風に朝5時起床…から…夜10時就寝まで延々と何をしたかについて書かかれても、しょうがないというか、少なくともそれだったらWEBに置く意味はないだろうとか、読書日記で言ったら、「○△□を読んだ、面白かった、マル」ではまるで小学生の夏休みの日記ではありませんか。ハナシが脱線しました。例えば、ISBNコードがある本であろうがなかろうが(笑)、ある本について語る、言及するという行為は、少なくとも、ベクトルは違えども、こんなに面白い/くだらない本を読んだ、心を動かされた、だから伝えたい、という衝動がまずあるのではないでしょうか。

誰がために2

「布教」というコトバがありまして、この業界(オタク)では、人に勧めるぐらいの意味で使われていますが、読んだことのない(/知らない)人に、貸したり焼いたりして(苦笑)、同志を作るという、えらく能動的行為でありまして、「面白かった、マル」よりは数段レベルが高い(業が深い)行為と言えます。
本の感想を書くというも、これに近い成分が多数含まれていて、読んだことのない人に、ぐだぐだ言わずに読め、という檄文としてのデマゴーグを志向するパターン(要は、手に取らせるという最初の取っ掛かり)か、よりクローズドに、もう完全に読み手を限定して、読み終わった人(同人であるならば縁あって入手できた人)を対象に、ネタを割って、「語るね、おれ」状態でやるパターンに大ざっぱではありますが、大別するとしますと、前者はニュースサイト系と言いますか、基本的な志向が網羅型と言いますか、こうした淡々と記録するよ的記述が多ければ多いほど紹介者としての立場に徹するという、ある意味、地雷処理班としての業務日報という性格が色濃いのではないでしょうか。
翻って後者は、と言いますと、絞っただけあって、一見(イチゲン)お断りの、特定の話題、特定のジャンルを専ら取り扱うディープな、「マスターいつもの」的なサイトになり易いと言えるのではないでしょうか。
前者はまこと時間のないリーマンオタにとっては、まさに福音のごとき存在でして、自分と波長の似通った管理人さんのサイトを見つけることが出来れば、自然と読むべき本の情報がキャッチでき、何を読むべきで何を読むべきでないか、の見当をつけることが出来るという非常に有難い、重宝するサイトさんと言え、金の鉱脈を掘り当てたも同然です。
これに対して、後者はピンポイントなサイトさんなので、あなたのダメ琴線にヒットすれば、すなわち当たればホームラン、でなければ帰れ、もとい三振で4タコという振幅の大きいサイトさんになりがちなのは万やむを得ないと言うべきでしょうか。わたしはこれらを称して、「アンテナな人」と呼んでいますが、常に話題豊富な人、悪い意味ではなく、こうしたトレンドに敏感な人というのは、あたかも擬似的な、自分の分身のごとく手足のように使いこなすことが出来る「アンテナ」を数多く持っているものです。

誰がために3

わたしは、いわゆる文藝を知りません。ごくごく最近の芥川賞直木賞受賞作品も読んではおりません。しかし、それらに対しては、きちんとした選評やら推薦のコトバが恭しく並べ立てられ、少なくとも職業的小説家ないしは近縁にて糧を得ている人々によって、評価がなされ、コメント、寸評がつき、それらは作品そのものとともに広く世間に流布しております。また、同じく職業的評論家の手により、よく練られた評論なども数多く著されておりますし、中には特定作品のみに対象を絞るのではなく、もっと文学全般に敷衍し「文章読本」というお題で、川端康成であるとか三島由起夫のような日本を代表するような作家、ごく最近の著名な作家ということであれば、大江健三郎などがそれぞれの文章作法ということで、自説を展開しています*1。これらに対して、ISBNがない本(同人誌etc)に対してはどうでしょうか。言わずもがなのことと思います

*1:そうだっけ?正確にはググってないんで知らん

誰がために4

例えば、わたしは、好んでSFとかミステリと呼ばれる小説を読むのですが、残念ながら一般的に言って、ごく控えめに言うとしても、とてもメジャー(主流)ではなくマイノリティー(少数派)であります。しかしながら、これらに関しては闘うマイノリティーでありまして、いわゆるSF者は、趣味者の中の趣味者、オタクの源流――その草創期において先駆者的役割を果たし、今でこそマンガ、アニメ・フィギュアなどそこから派生していった数々のジャンルに大きく遅れを取るものの――、に大きく貢献をしているところは、多くの人が認めているところです。これら、SF者はまだインターネットはおろかパソ通すらない頃から、各地でファンジン活動を通じて、活発な情報交換であるとか、作品批評であるとか、転じて自ら創作をしてみたりとかしていたことと比して、なんとお寒い状況でしょうか。思うに、情報の氾濫というのは、避けがたいこととは言え、無情なものです。おそらくは情報の飢餓感が彼ら先駆者たちの原動力だったのでしょう。事実、日本SF評論なので、見掛ける方々のお名前を拝見し、その経歴を眺めるに、ファンジン活動をしていなかった人を探す方が難しいのではないでしょうか*1

*1:考証の余地あり。適当に言っているので信じないように

そして、鐘は鳴る

 
同人誌は極めて同時代的なメディアです。
消費されるペースは早く、それを入手する人々はごくごく限られています。しかも、何も残りませんし、残しません。例外はイベント主催者が見本誌として回収した「ほん」でしょうか。日本最大にして、そしてそれは取りも直さず世界最大の同人誌の見本市、同人誌最即売会の中の即売会、であるとところの、あのコミケットにおいては、人知れずひっそりと見本誌が保管されているを聞き及びますが、アレが将来、一般に向けて、あるいは後世の研究者(笑)に向けて、あたかも国立国会図書館のように、およそ刊行されたありとあらゆるものを収集し整理し、分類しといったような機能を持つ拠点を開設するということでもなければ、おそらくは代表の胸のうち一つと、先立ちものがなければ到底かなわない見果てぬ夢であります。
また、同人誌は極めて属人的なメディアであり、非商業的な、商業ベースに乗りにくい、流動性に欠け、市場で流通されることは少ないメディアであるために、(インターネットオークション、同人古書店の台頭で劇的に改善されたものの)、ひとたび見失うと捕捉するのが難しくトレーサビリティーが極端に低いという商業出版物にはない性質が障害となり、その意味で「同時代的」と記述したのであり、一期一会の心境で同人誌即売会に臨まざるを得ず、買い逃しは即、幻の「ほん」化するというリスクを常に抱えているのです。

あの鐘を鳴らすのは、

以下アウトプット中…。システムを起動中です…。


プレビュー。わたしが感銘を受けたサイトに二次元墓地供養所というサイト様がありまして、供養というコンセプトにまるで代弁していただいたかのごとくでした。当該コンテンツは凍結中?のようです。