わたしの宗教観

かなり痛い文章ですね。
スルー推奨で。例大祭行かないで何やってんの?という感じ。


自分の趣味信条を他者に押し付けることはしたくないし、尊重することの大切さは理解しているつもりです。同人誌の山がある日突然無くなってたら、泣くし。だから、自分から見たら、ゴミの山でも相手にとってはどうなのかな?と思慮を働かすだけの想像力は持ち合わせているつもりです。でも、人生表街道の人々は共感シンパシーが低い気がします。全くの親心、善意、そうしたモラルを振りかざし断罪する。


あるいは、理解不能なものに対する嫌悪感。
まぁ結局は卵が先か鶏が先かの議論になってしまうのですかね?
どうにもこうにも、ライフハックで豊かな人生!とかどうもね。
良き社会人、良き家庭人、良き・・・なんですか。


借り物の言葉ですが「鈍感力」と言いますか。目を瞑ると言いますか、不問に付すと言いますか。
例えですが「ハルヒ」借りているところと「アダルトビデオ」だったら間違いなく後者(の方がマシ)。前者の「世間」に対する言い訳の出来なさ具合は異常。


理解が出来ないけど、尊重(無視)
理解が出来ないから、嫌悪(蔑み)


例えば、アイデンティティーの根幹を成すものについて、相手の理解を得るべくもないなら、せめて尊重して欲しいと思うことに対してはかなりの確度で同意してくれると思いますが、一歩進んで共有したいと思うのはやはり干渉なのでしょうか。それではあまりに寂しいと思ってしまうのですが、完全な同心円を目指す試みが悉く不幸な結果を如何に人類に対してもたらして来たかを考えれば、極端さを排除した上で、許容せざるをえないのですね。


拠りどころを求めるのは致し方の無いこととして、全能の何かが居て、全ての面倒事、厄介事を引き受けてくれるという思想に付きまとう胡散臭さ。大いなるなんとかが居るから、見守られているから行動を抑制するというのは自分の中で何かが違うように感じるのです。


人は孤独なものです。
その孤独に耐えられないから、そのようなフィクションを作り、フィクションがフィクションで無くなるまで信じ、幻想の中を生きる。



だから宗教のポジは信用がならない。



思うに、創作物への耽溺というのも本質的に同じことなのかもしれません。「代償行為」という述語は使いたくはありませんが、適切な言葉が見つからないので、代替と言いますか、現実からの逃避としてのフィクション。まぁ破滅型作家さんの場合、人生が壮絶であればあるほど作品のキレっぷりも凄いことになるのが道理なわけで・・・。


「幸せな家庭は一様に幸せであるけれど、不幸せな家庭はその様相を異にしている」
有名なコトバですが、この人間観察力には敬服せざるを得ない。幸福な家庭というのは似通っているもので、表街道の人々はそういうことには無縁な人々なのだろう、と。


その出っ張りこそが個性を形作るものと思います。
星界のアンガスン風に言えば「俺は○歳のときに地獄(裏街道)へ行く運命を悟った」


「決断しないということもそれ自体が一つの決断だからな」
先送りすることによって、ぼんやりとした、緩やかな流れに乗っている。それで良しとすることもまた選択。


決断とは現状の変更に他なりません。
定まっていないときは、それも一つの手ですが、何かを求めるならば時には冒険をしなくてはならないでしょう。安全地帯から云々って、これじゃまるで「要は。勇気がないんでしょ?」だな。


でもまぁその勇気、まぁ蛮勇というのか勢いというのか、自分にないものを持っている人というのは尊敬に値します。


ポジティブ教徒/ネガティブ教徒/迷える子羊。
まぁ「Take it easy!」気楽にいきましょう(ぐだぐだ言ってて結局それか、床屋談義、居酒屋レベルなので目の覚めるような結論を期待してはいけない